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ミュージシャンから日雇い労働まで、飛騨信用組合 古里圭史さんの意外な半生

2019年11月23日に開催したQUM BLOCS。Session2 ローカルブロック経済でご登壇いただき、さるぼぼコインに関する興味深いお話をしてくださったのが、飛騨信用組合の古里圭史さん。きっと順風満帆な人生と思いきや、歩まれてきた道にはさまざまな紆余曲折がありました。古里さんはどのような学生時代を過ごして来られたのでしょうか? THE DECKにてフィラメント代表の角が伺います。(文:大越 裕)

【プロフィール】

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古里圭史(ふるさと・けいし)
公認会計士・税理士
飛騨信用組合 常勤理事 総務部長
フィンテックプロジェクトチームリーダー
ひだしんイノベーションパートナーズ株式会社 代表取締役社長 
1979年生まれ。早稲田大学卒業。2005年株式会社スクウェア・エニックス入社。2007年有限責任監査法人トーマツ トータルサービス1部入所。上場企業・非上場企業の会計監査業務、ベンチャー企業に対するIPO支援業務、内部統制構築支援業務等に従事。2012年10月に地元、飛騨・高山にUターンし、地域密着のコミュニティバンクである飛騨信用組合に入組。融資部企業支援課長、経営企画部長を経て現職に至る。
ForbesJapanローカルイノベーターズオブザイヤー2018にてグランプリを獲得。

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角勝(すみ・まさる)
1995年~2015年、大阪市役所にて勤務し「大阪イノベーションハブ」の立上げと企画運営を担当。2015年、大阪市を退職し、フィラメントを設立。多くの企業で新規事業開発プログラムの構築・実行支援や独自設計したワークショップとコミュニティマネジメント手法を用いた人材開発・組織開発を手掛ける。
2016年には企業アライアンス型オープンイノベーション拠点The DECKの立上げにも参画し、他のコワーキング・コラボレーションスペースのコンセプトメイキングや活性化にもアドバイザリーを提供。


実際に飛騨でさるぼぼコインを体験

角 古里さんと最初にお会いしたのは、11月のQUM BLOCSに登壇いただいたときでした。さるぼぼコインのことは以前から知っていたましたが、その講演で詳しくお話を伺って、実際に使い心地を体験してみたくなったので、先週、飛騨に行ってきたんです。現地に足を運んだことで、いま現実にさるぼぼコインがどう使われているかよくわかるとともに、「こんなに地域経済に溶け込んでいるのか!」と驚きました。

古里 ありがとうございます、わざわざ飛騨まで足をお運びいただいて、本当に嬉しいです。

角 ネットの記事に取り上げられる地域の取り組みって、実際現地に行ってみると、地元ではたいして話題になっていないことって多いんです。ところが、さるぼぼコインは本当に地元に溶け込み、住民がみんな使っていた。観光客がさるぼぼコインでお土産を買ったり、ラーメン屋で支払いをしたりするのが日常になっている。お店の人同士が「今日はさるぼぼコインの支払い多かったね」とお話されているのも耳にしました。

古里 感無量です。導入にはいろいろな苦労がありましたので。「そんな怪しげな取り組みをして、飛騨の評判が悪くなったらどうするんだ」といったお怒りの声も当初はありましたから。

 え、怒られたんですか(笑)。

古里 はい、逆に言うとそれぐらい地域の方々と、飛騨信用組合の間は「顔が近い関係」なんです。地域の人が電話をかけてきて、「さるぼぼコインのここを直してよ」とか「こんな使い方したいんだけど」なんて相談を受けることもしょっちゅうです。そういうご要望はリスト化して、できるものからアップデートしています。それぐらいみなさんが意見を言ってくれるほど、受け入れられたことがありがたいですね。

 地元の神社にお参りした際には、お賽銭をさるぼぼコインで払いました。神社の柱にQRコードが貼ってあって、スマホでそれを読み込み、いくらお賽銭を払うか入力すれば、それでお布施ができるんです。これってよく考えれば、新聞広告とかにQRコードを載せれば遠隔でもお布施を募れますよね(笑)。あれも古里さんが考えたんですか。

古里 お賽銭はプロジェクトチームのみんなが話し合う中で出てきたアイディアですね。神社の他にも、飛騨古川にあるお寺の住職が賛同してくれて、やはりさるぼぼコインでお賽銭を受け付けています。他にもいろんなアイディアが、さまざまな地元の企業、団体から出てきており、僕らが想像もつかなかった使い道が生まれるのが面白いです。

 なるほどすごいなあ。さるぼぼコインはそういう面白がって使いたくなる感じがありますよね。そんなすごい地域通貨の仕掛け人である古里さんは、いったいどういうキャリアを積んでこられたかを、今日はぜひお聞きしたいと思っています。

古里 僕の経歴をお話しすると……、長いですよ(笑)。

 (笑)、構いません。存分にお話しください。

音楽でメジャーデビューを目指す

古里 わかりました。では、高校を出てからの人生をお話しますね。僕は地元の高校を卒業してから東京に出て、早稲田大学の教育学部に入学しました。早稲田の教育学部には「理学科」という専攻があって、そこでは生物学を学べるんですが、一学年40人ぐらいのほとんどが「医学部崩れ」か「医学部狙いの仮面浪人」なんですね。1人か2人ぐらいは、本当に早稲田で生物学をやりたい人もいますけれど、僕もご多分に漏れず、医学部崩れの一人でした。他大の医学部に現役で落ちて、浪人しても受からなかったんです。それで、進路をどうしようかな、と考えたときに、祖父から「一度、世の中に出てみて、自分がやりたいことを見つけたらいい」と言われまして……、とりあえず生物学に興味があったので、その学部に入りました。

 理系だったんですね。

古里 はい、研究者になるのもいいかもな、なんて考えながら、毎日白衣を着て、実験でDNAを見たりしていました。しかし学年が上がるうちに、どうも研究一筋という道がしっくり来なくなったんですね。

角 ふむふむ。

古里 それでいったん僕は、音楽の道に進むことにしたんです。

 ほう! 音楽ですか。

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古里 高校時代からバンドを組んでいて、もともと音楽が好きだったんです。当時、自宅で音楽を作って楽しむ「宅録」がブームで、僕も録音機材やマイクを買ってきて、大学に入ってからはアパートで録音をして楽しんでいました。それであるとき、作った曲をある小さな音楽プロダクションに送ったら、目を留めてくれて、そこに所属することになったんです。

 へえ、その頃って、スガシカオとかが売れてた時代ですよね。

古里 まさにそうです。ホフ・ディランとかカジヒデキとかが流行っていて、スガシカオさんなんて僕にとって「宅録の神」でした。自分もそういう音楽にどっぷりハマって曲を作り続け、その事務所からメジャーデビューを目指すことになり、大学を休学して真剣に音楽をやることにしたんです。毎週事務所に顔を出して、曲を4、50曲は作りました。僕一人でできる楽器は限りがあるので、ウルフルズやゆずのキーボードをされている方がバックについてくれて、5曲入りのCDを作り、レコード会社に売り込みにまわりました。

 いやあ、意外な過去です。それから?

古里 でも……、一年ぐらい続けるうちに「自分が本当にプロのミュージシャンになれるだろうか」と怖くなってしまったんです。本気でプロになるならば、やはり下積みが必要になりますし、自分は才能がないんじゃないか、売れないんじゃないか、みたいなことを思うようになってしまって。それで、ディレクターに相談して、いったん大学に戻りました。しかし戻ったら戻ったで、同期の友だちはいなくなってますし、研究室に馴染むことができなかったんです。研究にも身が入らず、そこからは無為に大学生活を過ごしていました。あれほど好きだった曲も書きたくなくなり、そうするうちに音楽事務所も不景気のアオリで潰れてしまって。当時、移籍の話もあって受け入れてくれそうな事務所もあったんですが、覚悟が定まっていないのに続けても駄目だろうな、と。それが22、3歳ぐらいのときですね。

 なるほどなあ。

挫折から日雇い労働へ

古里 医学部も落ちて、研究もだめ、音楽もだめ。その頃は、日々、挫折が上塗りされていくような感覚でしたね。何か本気でやりたいことに出会いたくて、ずっと探しているんだけど、見つからないんです。大学に行っても、授業も出ずにラウンジでタバコを吸って、またアパートに帰るみたいな日々を過ごしました。

角 今の古里さんからは想像もつきませんが、駄目学生の典型みたいな感じですね……。

古里 まさにそうです。ヒマだしお金もないし、大学4年のときにとりあえずアルバイトしようと思って、そこから日雇いの肉体労働を始めたんです。

角 マジですか。

古里 はい、ずっと家にいると気分が滅入ってくるので、外で肉体を酷使する仕事がしたかったんです。毎朝5時に起きて、現場に行って、夕方の5時に帰るという規則正しい生活を送るようになりました。

角 どれぐらいやったんですか。

古里 2年ぐらいですね。

角 長い!

古里 就職活動もせずに、ガラ(建築廃材)運びや、ビルの解体工事とか、ずっと日雇い労働をやってました。その頃はアルバイトにもかなり危険な作業をさせるのが珍しくなく、腰に命綱の帯をつけて、落ちたら確実に死にそうな高い場所にある鉄骨の解体とかもやりました。仕事は元請けのおじさんからもらうんですけど、5次、6次請けとかだから、日給7千円で、しかも装備費とかの名目で引かれて手取りは6千円でした。それでも、現金が即日手に入るのでありがたかったですね。

角 『賭博黙示録カイジ』の世界ですね。

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古里 まさにそうです。古いビルの天井を剥がすとブワーっと埃みたいなものが落ちてきて、ちょっと厚めのマスクは支給されてましたけど、「これアスベストじゃないか?」なんて思いながら働いてました。解体現場の控室で作業着に着替えるんですけど、僕以外の全員が服を脱いだら入れ墨が入っていたこともありました。昼ごはんのときに世間話すると、多重債務で逃げてる人だったり。でも僕はなぜか、そういう人にかわいがってもらえて。そして、ある親方の下で働くようになったら、手取りも日給1万円ぐらいもらえるようになりました。

 「中抜き」の次数が上がったわけですね(笑)。

古里 はい(笑)、そのときはたぶん4次請けぐらいだったと思います。昼飯もよく奢ってくれて、本当にいい人でした。結局大学は5年生で卒業するんですが、その後も半年ぐらいは肉体労働のバイトをしていましたね。でも、実家の両親からは「ちゃんと就職してくれ」とずっと言われていました。

 そりゃあ、そうでしょうね。

派遣社員としてスクウェア・エニックスへ

古里 両親に会うのが心苦しくて、帰省もなかなかできませんでした。その頃、大手ゼネコンの仕事で、「今度北関東でダムを作るから、長期でそこに行かないか」と言われたんです。でも、その仕事を請けたら、確実に数年は帰ってこられない。それで「会社に入ろう」と思ったんです。しかしそれまで就活もしてないし、ビジネスマナーも何もわかりません。それでとりあえず派遣会社に登録して、長期で働けるところを探してもらったんです。

 なるほど。

古里 それが僕の転機になりました。たまたまその派遣会社に紹介されたのが、スクウェア・エニックスの総務だったんです。当時、スクエニは新宿のクイントビルに入っていて、10フロアほど借りていました。ゲーム会社なので、社内にプログラマーを数百人抱えているのですが、作成中のゲームの進捗に合わせて、イラストレーターをディレクターの周りに集めたり、プログラマーが個別に入るブースを組み替える作業が定期的に発生していたんです。

ハニカム状の作業ブースのレイアウトの引っ越しには、配線から何から一斉に変える必要があります。そういう作業を外注で頼むと費用が高いので、総務にブースのレイアウトを変えるファシリテーションの専門部隊がいたんです。で、そのファシリテーター部隊の空きが出たというので、派遣会社から僕に声がかかったという次第でした。そうそう、面接に行ったとき、その場で作業があるかもと思って、作業着を着ていきました。派遣会社の人は「面接なのになんで?」とびっくりしてましたけど、着替える時間もないのでそのまま訪ねたら、部門長も金髪の長髪の屈強な感じの人で、作業着姿が逆に気に入ってもらって、奇跡的に派遣社員として採用してもらえたんです。

角 すぐに働ける状態で行ったのが良かったんですね。

古里 そうですね、派遣での採用でしたけど、心配かけた両親には「大手ゲーム会社のスクエニに入ったよ」と伝えました。それを聞いてすごい喜んでくれて、母親は泣いてましたね。それを見て、今まで悪いことしたな、と思いました。派遣で入社してから一生懸命働いていたら、数カ月後には有期契約の正社員にしてもらえました。

角 工事現場で働いていたことが役立ったわけですね。芸は身を助けるなあ。

(後編に続く)


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