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青山商事のスゴ腕マーケター・平松葉月さんが「10万人に1人」の難病を乗り越えて学んだこととは

フィラメントCEO角勝がCNET Japanで連載している「事業開発の達人たち」シリーズにおいて、「洋服の青山」で知られる青山商事のリブランディング推進室副室長・平松葉月さんにお話をうかがいました。平松さんはエンタメ、家電、飲食、紳士服と異業種を渡り歩き、その間に営業、クリエイティブ、マーケターと数々の職種を経験されています。また、10万人に1人の難病とも言われるギラン・バレー症候群に罹患し、その後回復したことが人生観に大きな影響を与えたといいます。
今回はCNET Japanの記事には収まりきらなかった平松さんの多様な職務履歴とご経験を改めて編集し、お届けします。(文/QUMZINE編集部、永井公成)


がむしゃらに仕事をしていて、気づけばマーケティングをしていた

角:平松さんはラウンドワン、AQUA(アクア)、幸楽苑ホールディングス、青山商事と様々な企業を経験されると同時に、お仕事の中身も変わっていったんですよね。

平松:そうですね。同じことをずっとやり続けることができないタチなので。ラウンドワンが9年間勤めていて一番長かったのですが、その中でも毎年違うことをやっていました。
入った時は新聞広告やチラシなどの紙ものから店頭のポスターまで制作周りのことをしていたのですが、そのタイミングでちょうどラウンドワンが全国展開することになりました。九州や北海道にも出店していくということになり、やったこともないのに店舗の店内サインのデザインをやれと言われたり、図面の見方も分からないままに「熊本に行ってこい」と言われたりしていましたね(笑)。

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角:え~!?なかなか大変じゃないですか?お客さんの動線とかいろいろなこと考えなくちゃいけない。

平松:そう、めちゃくちゃ大変です。サインは特にトイレの案内が大変で、あまり派手に書きすぎると目立ち過ぎてしまうので、うまく立ち止まって見渡すだろうというところに吊りサインをつけなくてはいけないんです。

あとは、ラウンドワンは施設内にボウリングやスポッチャ、カラオケ、アーケードゲームなどが混在していて、もともと動線がけっこう複雑なんですよ。回遊させるための動線をつくっているので、結果的にすごく導線が複雑なところの誘導を、やったこともないのにやることになりました(笑)。

角:それは相当建築系のノウハウがいるやつでしょ?

平松:はい。全然分からないのに突然内装会社さんとか、それこそゼネコンさんとの打ち合わせに入ることになって、みなさんから教えてもらいました。それこそ電気工事の職人さんとかいろいろな現場の方たちに、いちから「すみません。分からないので教えていただきたいのですが、これどうですか?」といって聞きまくって。

角:発注側だからと、知ったかぶりをしなかったのが逆に良かった感じですかね。

平松:知ったかぶりしていたらできなかったです、絶対に。知ったかぶりでできる範疇を超えているので(笑)。

角:素直にいろいろ聞くのが良かった感じですかね。仕上げというか仕事としてはうまく回りました?

平松:最初は回らなかったです。そもそもがサインのデザインを全部変えるという前提で行っているので、過去の情報を参考にすることができないんですよ。昼間に現場に行って、ヘルメット被って階段で全部1階から6階までぐるぐる回って。その日の夜にホテルで、あがってきたサイン会社さんから「こういうところにこういうものが要ります」という指示だけが送られてくるので、そこから明け方までデザイン作業です。デザインをひとしきりつくって、送付して、寝て、次の日また移動して違う場所に行くっていう。

角:違う場所?違う店舗ってことですか?

平松:違う店舗です。その時は同時に1か月数店舗、北から南までバラバラにオープンを同時期にしていたので、宮崎のあとに新潟に行ったりとか。それを全部一人で決めて動くんです。

角:それはなかなか追い詰められません?精神的に。

平松:結構きつかったですよ。それを丸々1年ぐらいやって、もうサインのことは大体分かったので、次は広告宣伝をやりたいと思うようになりました。私は大学のあとにデザインの専門学校を出ているので、その時の知人たちに声をかけてこれまでしていたことを引き継いでもらいました。その人たちを、それぞれチラシのクリエイティブ、店頭のポスターのクリエイティブ、ウェブ、店頭サインと担当を分けて、私は広告宣伝をやっていました。

角:組織のビルドをなされたんですね。

平松:そうですね。もともとブランドマネジメント室は店舗の御用聞きみたいな立場だったんです。こういうポスターが欲しい、こういう掲示物がほしい」という声に対応していたのですが、何十店舗もあるので、こなせていないものがどんどん担当者の机の横に溜まっていってしまいます。「これもういらなくない?期間過ぎてるじゃん」みたいなのがいっぱいありました。そうした状況に対して社内の役割をはっきりさせて、事実上ブランドマネジメント室の立て直しをしていましたね。

角:なるほど。今必要な仕事が何かをちゃんと理解して、それに対する答えを出してアクションをもしていき、チームもつくり、そして仕事が回っていったという感じですね。

平松:そうですね。

角:僕以前、足立光さんにインタビューした時に「マーケティングの仕事ってなんですか?」って聞いたんです。その時に「目的のために必要なことを全部やることだ」とおっしゃっていたんですよ。事実、経営そのもの、本質は経営そのものだということだと思うんですけど、平松さんがその当時やっていらしたことも非常にそれに近いものを今お話をお聞きしていて感じますね。

平松:そうですね。今は俯瞰で見れる状態というか、もう過去の話なのでこういうふうに系統立てて話せるんですけど、当時は必死でしたね。

角:なるほど。しかもその当時は別にマーケティングの人として雇われているわけでもないし。

平松:はい。クリエイティブでした。

角:すごいですね。必要なことを見つけて、それをちゃんとやらなくちゃいけないというマインドがその当時からあったということでしょうか。

平松:いや、多分本当に新しいものをやりたいタチなので、新しいことをやるためには乗り越えなきゃいけないハードルがいくつもあって、それを解決して、新しいことをやることが、最終的にみるとマーケティングをやっているような感じになったのだと思います。

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入社後2、3週間でポップアップストアの責任者に

角:なるほど。僕が初めて平松さんとお会いした時ってAQUAの時代ですけど、その時はもうマーケティングをされていたのでしょうか。

平松:そうですね。ただ、自分の中で自分はマーケターだという認識はなかったです。
AQUAが終わった時点でいろいろな人と接することが多かったので、その中で私はマーケターとして生きるのがいいなとは思いました。

角:なるほど。AQUAの時のポジションはマーケターではないんですか?

平松:一番最初はなぜか営業で入ったんです(笑)。もともとはマーケティングの部署に入る予定だったのですが、いろいろな組織改革の中で、マーケティングの部署自体がなくなり、各事業部の中にそれぞれの販促担当がつく組織になったので、私が入るポジションがなくなってしまったんですよ。それで、その時のマーケティングを統括されていた方が新しい営業の部署を立ち上げると聞き、そこに行くことになりました。

当時販促系の部署がなく、ホームページや店頭のプロモーションを組み立てる人がいなかったんです。そこで営業で担当を持ちながらそれらもやってくれと言われ、ホームページを立ち上げたり、動画をつくったりと、ディレクションみたいなこともやってました。

あと、メーカーは基本的に直営の店を作らないものですが、AQUA時代に渋谷パルコに初の直営店となるポップアップストアをamadana(アマダナ)さんと協業して開店することになったんです。入社してまだ2、3週間の時にそこの責任者になれと言われまして。

角:おぉ~!それ面白そうじゃないですか。

平松:でも、そもそも家電のことがわからない上に、直営のスキームがないんですよね。物流も商流もないんです。だからいったん館に入金されたものをいろいろな経費が差し引かれて入金されるというシステムがそもそもないですし。あとは物流として、ポップアップの店舗なのでそもそも倉庫がないですよね。それをどうするか、お前が責任者なんだから決めろと(笑)。7月に入社して10月にオープンすることになったので、すぐさま社内のスキームを整えて、出店先の渋谷パルコさんと交渉しました。

角:それやっていなかったんですか?それまでに。

平松:やっていなかったんです。だから交渉しているのか、していないのか分からない状態で私が責任者で契約のハンコを押すというのを、入って2、3週間の時にやったんです。

角:それはタフだな…。

平松:それで結構やることがありました。内装もやらなくちゃいけないので内装会社さんともやりとりしなきゃいけない、パルコさんともやりとりしなきゃいけない、amadanaさんともやりとりしなきゃいけない。

角:関係者多いな。

平松:そもそもパルコの中で冷蔵庫ばかり置いても売れないじゃないですか。

角:絶対売れないでしょうね。

平松:そこで、amadanaさんが持っている計算機やヘッドホンなどの小物類をいれたのですが、仕入れられないので「すみませんけど、在庫はバックヤードに置いておきますが、amadanaさんの在庫にしておいてください」とか、「売れたら都度報告を出しますので、請求してください」みたいな。そういうわけの分からないルールをつくって(笑)。

角:なかなかアレですね。オペレーションが複雑ですね。

平松:社内でそういうことをやったことがなかったですし、「直営店なんてなんでやるんだ」という人のほうが多かったので、反対勢がたくさんいました。あとは新しいスキームをつくるのって嫌がられるじゃないですか。

角:嫌がられるでしょうね。

平松:ITのシステムや、配送・設置など問題山積みでした。1対20ぐらいのテレビ会議をして、みんなから責められるっていう。

角:大変ですよね。

平松:そうです。無理やりにでも10月にオープンしなきゃいけないので、ただもうがむしゃらに進めました。でもオープンした時に「オープンしました」というメールを全社に送ったら、「そんなのできない」とか言っていた人たちもみんな「おめでとう」と言ってくれました。「冷蔵庫売れました」という報告をした時も、みんなすごく喜んでくれたんですよ。「パルコで冷蔵庫売れた!」みたいな(笑)。

角:なかなかの荒行をこなしていますよね。

平松:そうですそうです。

角:なかなかのキャリアしていますよね。ラウンドワンから移ってすぐそれはやれないと思いますよ、普通。

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ギラン・バレー症候群に罹患し、人生観が変わった

角:ところで、平松さんはかつて難病を患っていたとお聞きしたのですが、その時のお話をお聞かせ願えますか?

平松:幸楽苑在籍時に、ギラン・バレー症候群に罹患しました。

その時はまず、朝起きたら両足がしびれていたんです。でもそのうち治るだろうと思って、その日どうしても行かなくてはならない採用の面談がオフィスの外であったので出勤しました。面談で1時間半くらい話をした後にトイレに立とうとしたら、手すりを持たないと立てないという状態になっていたんです。その時は「足がおかしい」と思いながらも、まだ歩けないほどではありませんでした。その後、六本木の幸楽苑の店舗での予定があり、地下鉄で移動しました。店舗の階段を登ろうとしたら、足に力が入らなくなって登れず、這うように階段を登りました。当時の部下に「足がおかしいから確認事項を今全部言ってほしい」と伝え、それを確認してからかかりつけの先生に電話したんです。すると先生は「今すぐ紹介できる病院を探すからちょっと待って」と、店舗から自宅までの間にある病院を探してくださり、脳神経内科に行くように言われました。足がおかしくなる原因として腰が悪いか、脊髄が悪いか、脳の神経が悪いかのいずれかがあるらしく、そのどれかは検査しないとわからないはずなんです。ですが、ありがたいことになぜかその先生は最初から「ギラン・バレーの可能性あり」と申し送りをしてくれていました。

その病院に行って検査をしたのですが、入院するための病床が空いておらず、「今は入院ができない。できる検査は今やるから明日もう一回来てください」と言われました。しかし幸いにも話をしているうちにたまたま一床空いたので入院できることになり、荷物を取りに帰ってすぐに入院しました。

その次の日の朝、目が覚めると、足が全く動かなくなった上に手で物も持てない状態になっていました。先生にそう伝えると、ギラン・バレー症候群の仮診断がなされ、すぐに治療を受けることになりました。本来、外から入ってきたウイルスから身を守るための免疫システムが、エラーが発生して自身の末梢神経を攻撃することにより、急激に足先から麻痺が進む病気です。したがって、放っておくと全身の神経がどんどん麻痺していくことになります。たまたまそのタイミングで入院できて、翌朝手が動かないような状態になったのですが、もしすぐに入院できずに一旦家に帰っていた場合、進行が早かったので病院に行く前に肺や心臓を動かしている筋肉や神経が止まってしまうと、呼吸困難で死んでいた可能性がありました。偶然入院できてよかったと思いました。

治療には、エラーが起きている抗体を正しいものにするために、ジャムの瓶位の容器に入った免疫グロブリン製剤を1日5本、6日間点滴で入れることになりました。1本10万円ほどするのですが、もう選択の余地がありませんでした。それで感覚がもし戻って来なければ、血漿を正しい状態にして体内に戻す血液浄化療法という大掛かりなものになっていました。麻痺してからすぐに治療を開始したことで、1ヵ月弱位で退院することができました。もし麻痺の期間が長ければ後遺症が残る可能性もあり、人によっては歩けなくなるケースもあるようです。足腰がおかしいからと別の検査をしていると、ギラン・バレー症候群であることに気づけず亡くなってしまうケースもあるとの事でした。確率的には10万人に1人位発症するそうで、これには性別も年齢も関係ないとのことです。

角:まさに九死に一生ですよね。

平松:全部ラッキーだったんです。その先生に電話したのも、最初から脳神経内科に行ったのもラッキーでした。これがもし違うところに行っていたら、もしかしたら病気の進行によっては家で呼吸困難になって、救急車を呼んで、間に合わなければ亡くなってたかもしれない。そう思うと、生きていることが奇跡だから、精一杯楽しく生きようと考えるようになりましたね。

角:ギラン・バレー症候群という難病だし、後遺症がなかったのも凄いですよね。

平松:それはそう思いますね。ただ、2年くらい経っても足首の力が戻らないというのはあります。しゃがんだ姿勢の時に体勢を保持するのがすごく難しいんです。日常生活でちょっとした段差の時に躓いても踏ん張れずにやたら転んでしまうというのはあります。段差にすごく気をつけて歩くようになりました。

角:それで済んでよかったって言う感じですよね。

平松:はい、歩けなくなるよりずっといいなと思っています。「足が動かなくなったらどうしよう」と、周りの人はすごく悲観してたんですよね。でも私は「死ななければなんとでもできるじゃん」と思っていました。車椅子で生活するには家に段差が多いから大変だな、と言う話をしていたくらいです。でも意外と無事に生きてますね。

角:10万人に1人しか語れない話ですよ。

平松:人生観は変わったと思います。五体満足で健康に生きることができて、自分の好きな仕事をやれているのは本当に奇跡みたいなものなんだと思いますね。そういう意識をすることで、人との会話の大事さみたいなことをいつも考えるようになりました。

角:物の見方ですよね。「切羽詰まってもうどうなるかわからない」という状況を知っているからこそ、そうではない状況との落差の部分で、自分の人生のいろんなものを図るための物差しが形成されている気がします。そこはやっぱりそういうの知ってる人は常に自分の状態を俯瞰して見る力というのがすごく養われているんじゃないかなと思います。

平松:多分あの後から、通常の目線と俯瞰した目線で交互に見るのが普通になっていると思いますね。

角:もっとそういうものの見方をしなくちゃいけないなと思いましたよ。

平松:してるでしょう。何をおっしゃる(笑)

角:死ぬような体験はしていないなと思って。

平松:それはただ単に、私の人生の中での一つのトピックスなのだと思います。他の人はそれに代わるトピックスを持っているはずで、総合的に見て私が経験していないことを角さんが経験していて、それによって代替されているはずなんです。

角:うまい、まとめもうまいな(笑)。ありがとうございました。

難病を患う前後も様々な業種で活躍されてきた平松さん。そんな平松さんが転職した時に心がけていることや、短時間で社員からトラストを得る方法、そしてマーケターとしてのPR戦略の考え方について、続きはCNET Japanでの記事をご覧ください。



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