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飛騨信用組合 古里圭史さんがスクウェア・エニックスで得た学びと飛騨にUターンした理由

前編では、医学部入学に挫折し、ミュージシャンの夢も破れた古里さんが、大学在学中に肉体労働の日々を送り、ふとしたきっかけでスクウェア・エニックスの総務部署で働くまでのことを伺いました。その後、古里さんはどのような人生の軌跡を辿り、飛騨信用組合で「さるぼぼコイン」をリリースするに至ったのでしょうか。
引き続き、フィラメント代表の角がうかがいます。(文:大越 裕)

前編はこちら↓


【プロフィール】

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古里圭史(ふるさと・けいし)
公認会計士・税理士
飛騨信用組合 常勤理事 総務部長
フィンテックプロジェクトチームリーダー
ひだしんイノベーションパートナーズ株式会社 代表取締役社長 
1979年生まれ。早稲田大学卒業。2005年株式会社スクウェア・エニックス入社。2007年有限責任監査法人トーマツ トータルサービス1部入所。上場企業・非上場企業の会計監査業務、ベンチャー企業に対するIPO支援業務、内部統制構築支援業務等に従事。2012年10月に地元、飛騨・高山にUターンし、地域密着のコミュニティバンクである飛騨信用組合に入組。融資部企業支援課長、経営企画部長を経て現職に至る。
ForbesJapanローカルイノベーターズオブザイヤー2018にてグランプリを獲得。

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角勝(すみ・まさる)
1995年~2015年、大阪市役所にて勤務し「大阪イノベーションハブ」の立上げと企画運営を担当。2015年、大阪市を退職し、フィラメントを設立。多くの企業で新規事業開発プログラムの構築・実行支援や独自設計したワークショップとコミュニティマネジメント手法を用いた人材開発・組織開発を手掛ける。
2016年には企業アライアンス型オープンイノベーション拠点The DECKの立上げにも参画し、他のコワーキング・コラボレーションスペースのコンセプトメイキングや活性化にもアドバイザリーを提供。


公認会計士を目指した理由

古里 スクウェア・エニックスでは、社会の基本的なルールから、メールの打ち方・オフィスソフトの使い方・CADの扱い方まで、全部教えてもらえてもらいました。ファシリテーションの部署で働いたのは1年ぐらいでしたが、ものすごい濃密な時間でしたね。毎朝みんなより1時間半ぐらい早く、朝7時半には出社し、掃除をしたり仕事の段取りを考えていました。それまでの人生の遅れを取り戻すための、まさに修行期間だったと思います。

 直属の上司の部長が優しくも厳しい方で、それまで社会のことをほとんど知らなかった僕に、挨拶から一般常識を教えてくれました。昔気質の人だったので、

「新人ならいちばん会社に早く来て、みんなの机の周りを掃除しろ」

「総務の仕事は、いかに社員に気分良く働いてもらうかだ。クリエイターがいかにゲームを気分よく作ってもらえるか。サービスを届けるのは社内の人々だけれど、それを通じて社会に価値を貢献するんだ」

という言葉をいただいたのは、よく覚えてます。社員3人にパートが1人というチームで、総務の中で僕らだけが現場作業の担当なので、全員作業着にレンチなどの道具が入るベルトをして、見かけからして一体感がありました。僕も当時、金髪にピアスにジーパンで出社してましたが、ゲームクリエイターもそういう格好の人が多いので、許されていました。

角 いやあ、面白いなあ。

古里 チームリーダーは、オフィスレイアウトに関してものすごく広い知識を持ってましたね。ただ工事をするだけでなく、「どういう配置だと人が話しやすいか」といったコミュニケーション的なことから、什器の色などにもこだわりがあり、作業の一つ一つにすべて意味があることを教えられました。それまでも日雇労働で一生懸命働いていましたけれど、自分がどういうふうに世の中の役に立っているかはまったく見えなかった。それがスクエニに来て、自分の仕事が誰かを助けているということに実感を持てるようになりました。

 その感覚、わかります。

古里 プログラマーから「ゴミ箱もってきて」と頼まれて、ブースの地図を見ながら届ける、それだけでも喜んでもらえることが嬉しかった。大規模な引っ越しの場合、「3階のE12番から12階のA5番へ」みたいな移動が数百人分あるんです。それを夜間に行うわけですが、段取りがすごく大事になり、どうやれば効率がいいか事前に綿密なスケジューリングが必要になります。僕らだけでなく、いろんな外部業者の作業も発生するので、彼らに待ち時間が出ないようにしないといけない。事前準備をちゃんとやらないと、めちゃくちゃ怒られました、本当にあの仕事で、自分は育ててもらいました。そんな経験を積むうちに、「挫折だらけの人生」というコンプレックスがちょっとずつ消えていきました。

 スクウェア・エニックスに入られたことで、人生が変わりましたね。古里さんは、自分の関心のエネルギーがある方向に向いたら、一気にそこに突き進むタイプなんでしょうね。でも、そこからなぜ、会計や金融の道に進むことになったんですか?

古里 ファシリテーション部隊で仕事をしていたら、あるとき総務部長から「事務のほうもやってみるか」と言われたんです。そのとき「株式ってわかるか?」と聞かれたのですが、実は株に関しては、大学で迷走していた時代に、簿記の資格をとろうと思ったときがあって、少しはわかったんですね。上場会社なので、毎日株価をチェックして、ひたすら株価をエクセルに入れてグラフ化する作業がありまして、最初はそれを担当することになりました。

そのうち、設備の仕事も並行しながらでしたが、社内でストックオプションを行使する人の事務や監査作業のお手伝いも担当することになり、監査法人の人々とやりとりするようになりました。パリッとしたスーツを着た人が4、5人大きなスーツケースを持って来られて、よくうちの経営陣と応接で話していたので、「あの人たちはなんですか」と上長に聞いたら、「公認会計士だよ」と答えが返ってきました。それまで「僕はスーツ着ている人ってださいな」と思っていたんです。ジーパンとかのラフな格好で働いているほうが、かっこいいと思っていた。でもその頃から、「あの人たちバリバリ仕事していて、かっこいいな」と思うようになりました。

彼らは会計の専門知識を生かして、スクエニのトップとも対等に話しながら、経営のアドバイスをしている。僕からしたら当時、社長は神様みたいなもので、部屋の掃除のときにちょっと会話するぐらいです。長男だったので将来、いつかは地元に帰ろうと思っていたのですが、もしもいま帰ったら建築会社で働かせてもらうか、塾の先生しか自分の選べる仕事の選択肢はないだろうな、と。それで自分も会計の資格をとれば、仕事の幅が広がるんじゃないか、と憧れたんですね。

角 なるほど、そこで音楽に変わる「メジャーデビュー」の道として会計士が浮かんだんですね。

古里 二十代も半ばになって焦りもあったもんですから、簿記の3級からちょっとずつ勉強を始めました。1時間のお昼休みは、10分でおにぎりと味噌汁をかきこんで、あとの50分を勉強に当てました。2級まではスクエニに在職中にとって、退職してから、簿記1級を取得しました。じつは今のスクエニ社長の松田さん(松田洋祐氏)という方も会計士なんです。当時、松田さんに相談したら、「会計士になりたいなら、会社をやめて期間を決めて勉強したほうがいい」とアドバイスされました。それで両親にも相談して、本格的に会計士になることを決めました。通信講座のDVD授業を見て集中して勉強した結果、辞めた翌年の6月には会計士の1次試験が受かりました。

リーマンショックの前のその頃は、新米会計士にとっていい時代で、日本の監査法人がすごく沢山採用した時期だったんです。2次試験に受かっていなくても、1次だけパスしていれば、取ってもらえて。それで僕も、会計監査大手のトーマツを受けたところ、内定をもらうことができたんです。

角 すごいなあ、まさにわらしべ長者ですね。

古里 僕は2次試験には落ちたんですが、トーマツの同期のうちのほぼ80%超は2次試験合格者でした。そのとき僕は27歳で、みんな24歳とか23歳。同期の中では明らかにシニア枠に入っていました。実力勝負の世界ですが、試験に受かった年次が序列を決める文化でしたので非常に肩身が狭かったですね(笑)結局、次の年の試験では2次に合格したのですが、年下の方が上司というのは当たり前の職場でした。

 紆余曲折の経歴を過ごしてこられたんだなあ。

古里 今振り返っても、とにかくスクエニはめっちゃいい会社でしたね。そうそう、ファミコンのスペランカーから最新のソフトまで、今まで出た日本のゲームソフトが、会社のライブラリーにほぼ全てあって、それを研究用に社員が借りられるんです。僕も借りてよく休みの日はゲームをしてました。

角 まさかMSX版のスペランカーとかも?

古里 あったと思いますよ。プログラマーが過去のゲームを研究するのに役立てるためのライブラリーなので、過去のゲームを全部管理している業界団体とも提携していたと思います。

角 僕らがパソコンでゲームを初めて体験した1980年代前半頃なんて、記録媒体がカセットテープですよ。一回のゲームデータをロードするのに15分ぐらいかかって、一回死んだらもう一回ロードし直したりとか、まさに地獄でした(笑)。それからどうなったんですか?

古里 トーマツに入ってからも、日雇い労働やスクエニの現場仕事で、体育会的に鍛えられたことは本当に役立ちました。配属された部署が、ベンチャーのIPOを専門に担当するセクションで、上司や同僚にもラグビー部とかアメフト部出身の、屈強な人が多く所属していました。小さなまだ会社としての体をなしていないような組織をコンサルしながら監査して、まともな会社にして上場させるのがミッションなので、ものすごい激務なんですね。お客さんが上場会社の場合は、10数名の担当がつきますが、小さなベンチャーの場合は多くても3人ぐらいしか担当がつかず、貸借対照表をはじめ全部の数字を見ます。僕は当時盛り上がりを見せていたFX関係の会社を担当しました。1人10社ぐらい受け持つので、むちゃくちゃハードな毎日でしたが、僕は会計士になるのが人より遅かったので、早く経験を積みたかったから、あえてその部を希望して入ったんです。

角 努力して能力をアップさせるのが好きなんですね。トーマツには何年いらっしゃったんですか?

古里 6年ぐらいいました。年下の上司からも、遠慮なくきびしく仕事で叱られたのはいい経験でしたね。僕は顔つきから年齢より若く見られることが多くて、よく年下だと思われるんです。始めて現場主任になったときに、後輩を連れて取引先の社長のところに顔を出したら、僕より先に後輩にお茶が出てきて挨拶されるなんてこともよくありました(笑)。

 古里さんの、相手が誰であっても可愛がられる姿勢は、そこでも生きたんですね。

飛騨信用組合に移ったきっかけ

 その後に、飛騨信用組合に移った経緯は?

古里 トーマツを辞める1年ぐらい前に、地元で結婚式をしたのですが、そのときにうちの父のつながりで、「トーマツで働いている若い男がいて、いずれは飛騨に戻ってきたいらしい」というのが飛騨信用組合の関係者の間に伝わったんです。ちょうど経営改革の真っ最中で、金融機関からお金を集めて地元企業の支援ができる人材を入れたい、と考えていた時期だったんですね。当時のトップは、改革のために金融庁から派遣されてきた十六銀行出身のばりばりに仕事ができる方で、その人からお声掛けいただきました。

 なんだか、そのトップの方にも体育会のにおいがします(笑)。

古里 あるとき会社で働いていたら、その方から電話がかかってきて、「いまトーマツの下にいるから、一緒に食事をしよう」と誘われました。その場で面談みたいになって、「飛騨で良い仕事をするなら、年を取ってからではダメだ。若い頃に戻らないと意味がないぞ」と言われました。いま改革の真っ最中だから、そこに飛び込んで地元の中でやりたいことをやってみろ、と熱く説得されて。その頃はリーマンショックの後で、監査法人が大量のリストラを始めていたんです。僕が中堅になる頃には、下の世代が早期退職で400万か500万円ぐらいもらって、一気にやめていました。それで彼らが担当していた仕事もやることになったので、それまでにも増してハードに働いていた頃でした。

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夜の9時頃に訪問先での業務を終えて、事務所に戻り、深夜までかかって書類仕事をする毎日でした。そんな日々を送っていたときに、東日本大震災が起こるんです。そのときたまたま一人で、品川のタワービルで仕事をしていたんですが、ビル全体がとんでもなく揺れて、帰れなくなりました。原発もやばいし、トーマツも一週間程ですが事業を停止して、休みの間、「このまま東京で、家庭を持ってずっと働いていけるだろうか」と考えました。

それに監査という仕事は、やりようにやってはクリエイティブなこともできるのですが、端的に言えば「人の仕事のミスを発見して直してもらう仕事」なので、頑張れば頑張るほど、お客さんに喜ばれないんです。眼の前にいる経理の人からすると、自分のミスが会計士に発見されれば、評価が下がりますからね。上場会社だと、会計ミスで株価が下がったりするので、その結果、担当者が閑職に飛ばされたりもするんです。

角 確かにそれは、辛い仕事ですね。

古里 だからベテランになるほど、心を病む人が増えていくんです。そんなときに、飛騨信用組合のトップから「地元の明るい未来を作るためにがんばってくれ」という話をされたことから、心が決まりました。妻も東京出身でしたが、快く同意してくれて、ありがたかったですね。

角 飛騨に戻ったのはいつですか?

古里 2012年の6月です。最初は飛騨信用組合の融資部にある、企業支援課という部署に配属されました。民主党政権下で金融担当相だった亀井静香さんが進めた、モラトリアム法というのが施行された時期で、中小企業が資金繰りのために金融機関に貸付条件の変更を求めたら、銀行などはできる限りそれに応じるように、というのが政策として進められていたんです。それで、飛騨の中小企業の財政を金融面から支援する、という仕事をそこで進めました。

それまでは東京のIT企業などを担当していたので、地元の中小企業に顔を出し始めた当初は、びっくりしましたね。そういう会社の多くは、会計業務のほとんどを地元の税理士さんに任せているのですが、税理士は主に税務申告の観点から数字を見ているので、経営面のコンサルティングなどはあまり行われていないように感じました。受け入れ側の社長や経理と話していても、数字はあくまで税務申告のために作っている、という意識で、会計から業務をどう改善するか、というトーマツで叩き込まれた「常識」が通用しないことを痛感しました。

 なるほど。

古里 でもそれは、ぜんぜん悪いことではなくて、要するに企業組織としての「生態系」が違うんだ、ということにしばらくして気づきました。地元の企業は、お互いに事業を今後も続けていくために、助け合いの意識を持って会社を運営しているんです。支払いも相手が厳しければ待ってあげたり、経済合理性だけでは動いていない。でもそれは、長期的に見れば自社のためでもあるわけです。それまでバリバリの資本主義の世界にいたので、税務申告の項目に「頼母子講」とあったのを見たときには、「これはなんだ?」と驚きましたけれど(笑)。
注:「頼母子講」(たのもしこう)とは、鎌倉時代に始まり、江戸期に発達した民間の金融互助組織のこと。メンバーが掛け金を定期的に出し合い、入札または抽選で、そのうち一人が所定の金額を受け取り、事業に役立てる仕組み。

角 「頼母子講」にカルチャーショックを受けたわけですね。

古里 そういう昔ながらの経済システムが、今も現役で生きていることに驚きました。だからこそ、会計士の僕が飛騨に戻って見なければならないのは、帳簿の数字だけでなく、社長や会社の雰囲気とか、工場や現場が健全に動いているかとか、そっちの数値化できないほうなんだ、と意識が変わりました。でも考えてみれば、日本の企業の大多数を占める、400万の中小企業がほとんどそういうシステムで事業を継続しているんです。

その生態系を見ずに、東京でバリバリの資本主義の世界だけに浸かっていたら、、この国の経済の重要な「核」を知らないままになる、と、そこで気づきました。実はトーマツを辞めるとき、会社の人から「信用組合なんて、これからのキャリアをどう考えているんだ?」と驚かれたんです。

角 金融業界には、明確な「序列」がありますからね。

古里 はい、トップがUFJや三井住友などのメガバンク、その次が各地の有力な地銀、第二地銀、そして信用金庫、信用組合と続きます。金融を目指す学生の就職活動でも、その順番に受けていって、野球のドラフトみたいに落ちた人から「下位」の金融機関に入っていきます。でも僕は、飛騨信用組合で働くようになってから、「いま自分がいるのは金融・経済における最先端の世界なんじゃないか」と思うようになったんです。協同組織である信用組合は、地元の企業としかお取引ができません。僕らの場合であれば、高山市と飛騨市、そして白川村にある会社にしか、金融サービスを提供できないんです。その点で、メガバンクをはじめとする銀行とは、明らかに違います。そもそも、資本主義の基本である株式会社は、出資者である株主が、組織の運営主体ではないんですね。だから「経営と資本の分離」が取り沙汰されるし、「株主資本主義」みたいなことが言われて、そこで働く従業員やサービスを受ける消費者より、株主の利益を優先するような事態が起こるんです。

角 たしかにそういったニュースはよく目にしますね。

古里 それに対して、信用組合はもともと郷土の経済をうまく回すために、金融機能が必要だから生まれてきた組織です。出資者も、それを受けて会社を運営する経営者も、組合で働く従業員も、全員が郷土のメンバーなんです。東日本大震災のあとで、経済を拡大し続けることより、むしろ小さなコミュニティに縮小させて、その中で真の豊かさを追求したほうが、人間にとって幸せなのではないか、という動きが日本中で活性化しています。そんな小さなコミュニティの経済を活性化する金融の仕事は、規模と拡大を宿命付けられたメガバンクにはできません。そういう意味で、これから日本各地のコミュニティを活性化できる信用組合の仕事は、「金融の最前線」と言えるんです。この気付きを得てから、飛騨信用組合で仕事をする意義が明確になり、「めっちゃ面白い現場に自分はいるんだな」と日々思うようになりました。

 なるほどなあ、その気づきが、古里さんが仕掛けてきたさまざまな新しいチャレンジにつながっているわけですね。

古里さんの次なる構想

古里 経営企画部の部長になってからは、「育てる金融」という構想を打ち出して、地元の中小企業が「芽」の段階から支援できるような取り組みを始めました。そのうちの一つが、「FAAVO飛騨・高山」という地域限定のクラウドファンディングです。これまで金融機関の支援を受けられなかったような、まだ構想段階のプロジェクトや事業計画に対しても、この仕組みを通じて初期からコミットするこで、成長を助けていければと思ってスタートしました。2014年の開始以来、企業だけでなく、例えば地元にあるハンドボールのチームや、地域のフルーツの販売事業を始めたい個人の方など、さまざまな事業者に利用してもらって、成功を収めています。クラウドファンディングによってシードの段階から地域の事業に関わることができ、たくさんの情報を得られることが、我々にとっての大きなメリットだと感じているところです。

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 さるぼぼコインはどういう経緯で生まれたんですか?

古里 もともとは、地域通貨を作りたい、という発想がスタートです。飛騨・高山地区には、年間を通じてたくさんの観光客が来ます。とくに最近では、中国や台湾・韓国などアジア圏からの訪日観光客も増え続けています。ところが、せっかく観光客が来てくれても、地元の商店でクレジットカード決済ができる店は少なく、地元にお金を落としてくれるチャンスを逃していたんです。もともと地域には「さるぼぼクラブ」という、飛騨信用組合が発行する共通割引券制度があって、そこにすでに590店が加盟していました。その「さるぼぼクラブ」を母体にして、電子化した地域通貨を作れば、訪日観光客の電子決済したいというニーズにも対応できるだろう、というアイデアからスタートしています。

角 その構想通り、現在のさるぼぼコインは、中国のアリババが運営する電子決済システム「アリペイ」とも連携していますね。僕が飛騨を訪れたときも、大量の中国人・外国人の観光客を見ましたが、彼らのほとんどは市内の店でアリペイで決済していました。飛騨信用組合の取り組みは、日本の地域のなかでも非常に早く、これから先進例として広がっていくことと思います。次にどんなことを構想しているか、教えていただけますか?

古里 さるぼぼコインの利用を商店だけでなく、地元のある程度の規模の企業や、ゆくゆくは行政にも広げていきたいと考えています。企業同士の決済や、行政が委託事業で支払うお金がさるぼぼコインになっていけば、地域全体でさるぼぼコインの流通額がさらに増えていくはずです。

角 それはいいですね! いま思いついたんですが、地域の病院にかかる医療費をさるぼぼコインで代替できたり、生活保護の方々に支給するお金をさるぼぼコインにすれば、それは行政側にも大きなメリットになるはずです。電子決済はログが残りますし、使用者の個人データもセットですから、例えば年齢によって医療費の還付制度を自動化したり、生活保護のお金を適正に使ってもらうような仕組みが構築できるはずです。

古里 なるほど、医療費のような公的なお金にも、さるぼぼコインが使われるようになれば、さらに地域に根付いていくことは間違いありません。ぜひ、将来的には、実現に向けて動いていきたいと思います。

 今日は、古里さんのこれまでの軌跡、本当に面白く聞かせていただきました。これからもさるぼぼコインと飛騨信用組合を応援していきますね!

古里 ありがとうございました!

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